天草の聖人「ガルニエ神父」~無限の愛を、貧困の地に注いだパアテルさん

大江教会を建てたガルニエ神父

遺言に背いて建てられた「ガルニエ塔」。その訳とは?

ガルニエ搭(天草・大江教会)

「ようやく出会えた」

天草・大江教会の敷地に建つ「ガルニエ塔」。この一見何の変哲もないカトリック墓碑を礼拝するのが長年の念願だった。2015年、真夏の蝉しぐれの中、数年越しの願い叶った瞬間での筆者の一言である。

この塔は、ガルニエ神父と現地信徒との心の紐帯の証しだ。その意味するところから物語を始めよう。

大江教会(熊本県天草市天草町大江1782)

2018年6月に世界遺産入りした「天草の﨑津集落」。そこから5キロ離れた小高い丘にそびえる「大江教会堂」。スカイブルーとのコントラストがひと際映える白亜の教会は、名工・鉄川与助作として名高い。

その教会敷地の一角に「ルドヴィコ・ガルニエ塔」と呼ばれる墓碑がたたずんでいる。

貧困に喘いでいた戦前の天草。そこで福祉と信仰に献身した一人のフランス人神父がいた。その偉業を称える墓碑で、殊更特別なものではないと感じるだろう。

しかしガルニエ塔は、神父のとある遺言に背いて、信徒たちが建立したものだ。「遺言に背いてでも、ガルニエ神父の功績を後世にまで伝えなければならない」。その熱意が突き動かした行動だった。

国境の壁を越え、宗教の垣根を越えて、ひとすら、ただひたすらに、天草の民のために身をつくし、そして現地に骨を埋めた「フレデリック・ガルニエ」

その生涯を通した無限の愛について。そして帰天前に語ったとある遺言について語りたい。

ガルニエ神父が、天草に足を踏み入れるまでの軌跡

伊王島(香焼総合公園展望台より) 江袋教会(長崎県南松浦郡新上五島町)
長崎市・伊王島 上五島の赴任先・江袋教会

1860年、フランス、オートロアール県ルビュイ市で、呉服商を営む裕福な家庭の末っ子として生まれる。

1884年、パリ大神学校卒業して司祭に叙階される。

1884年11月4日、宣教のため日本へ向け出発し、12月20日に神戸に上陸。

1886年により長崎県伊王島、88年には上五島の司祭として赴任する。

1892年、32歳で自ら希望してキリシタンの地として歴史深い熊本県天草の地を踏み、天草郡の大江村、および富津村の主任司祭に着任する。

運命の地、天草で

ガルニエ神父胸像(天草・大江教会内)

1892年5月、天草下島の西端大江に赴任したガルニエ神父だが、現地住民のあまりに貧しい暮らしぶりに驚きを隠せない。それとともに、異国人の自分にとても親切に接してくれたことに触れ、後年「このようなところに来てよかった」とつぶやくのが口癖となっていた。

永住を決意した神父に対し、地元民は親しみを込めて「パアテルさん(神父の意)」と呼んだ。

ガルニエ神父は、神社の前で拝礼をし、困った人がいれば仏教徒でも分け隔てなく救いの手をさしのべた。このような人柄のため、カトリックはもちろんことそれ以外の地域住民からも深く慕われた。

「根引きの子部屋」。孤児院での奮闘記

根引きの子部屋(ガルニエ神父による孤児院跡)
「根引きの子部屋」

貧困に喘いでいた天草には、間引きや捨て子の悪習がはびこっていた。博愛の人ガルニエ神父には、座視できない難題として立ちはだかった。

そのためまず前任フェリエ神父が始めた孤児院を受けついだ。そして廃院寸前の状態から最盛期には30人を超す孤児を養い、学校に通わせ、就職先を世話した。さらに仏教徒の子も分け隔てなく育てた。

経営は困難を極めたが、生涯一度も帰国することなく、その費用を運営費にあてた。

その孤児院育ちだった「山下浅太郎翁」の回顧録が『天草の土になりて~ガルニエ神父の生涯』に記されてるので紹介したい。

「私は捨て児であったので、父親の顔も、母親の顔も知らぬ。ガルニエ神父が私の父であり、また母である。

この山の頂上は不便なので、山を下りようと今まで何度か考えたこともあったが、小さい時からここで育てられたことを考えると、どうしても山を去る決心がつかず、とうとう今日まで過ごしてきた。

夜中などこの静かな山の上でふと眼をさまして、自分の幼い時からのことを、それからそれへと考えてみるとガルニエ神父の有難い心が思われて、この年になっていても、涙が出てくる……」
引用 :浜名志松、『天草の土になりて~ガルニエ神父の生涯』、1987年、日本基督教団出版局、77頁

明治40年ごろに閉鎖された山中の孤児院は、草木の波に吞まれ人びとの記憶からもいつしか消えていった。

ところが1960年代の道路開通の際に発見され、今では「根引きの子部屋」として整備されている。カーナビに記録されてない僻地にあるが、是非訪れていただきたい。そしてガルニエ神父の無限の愛の痕跡に触れて欲しい。

パアテルさんと「五足の靴」一行との邂逅

大江教会敷地内の吉井勇の歌碑
大江教会敷地内に建立された吉井勇の歌碑

天草から着任して15年後の1907年に、珍しい来客を応接することとなる。新進気鋭の詩人、謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、平野万里、吉井勇の5人が、九州紀行の途上で神父を訪ねてきたのだ。

神父は流暢な天草弁で、天草キリシタンの受難の歴史について親しげに語り聞かせた。対する5人は、神父の滅私の精神に深い感銘をうける。そしてその人となりは、東京の二六新聞に寄稿された紀行文「五足の靴」で紹介された。

この出会いは、北原白秋が『邪宗門』を起稿する契機となった。そして、他の4人もおのおのキリシタン文学を上梓し、その是非を世に問うことになる。

吉井勇の再訪

大江教会敷地内の吉井勇の歌碑
45年ぶりに再訪した際に詠まれた吉井勇の短歌 

若き文学青年5人が、ガルニエ神父を訊ねて45年の月日が流れた1952年。ガルニエ神父と吉井勇以外の4人は、既に他界していた。

唯一の生き残りとなった吉井勇は、5足の靴が当地を訪れた記念として短歌を詠んだ。その歌碑が大江教会敷地に建立され、その除幕式に京都から再訪したのだった。

わずか一度、それもたった滞在一時間の出合いだった。それにもかかわらず、若き吉井勇の記憶のなかに、神父の人情味あふれる人柄が鮮明に刻まれていた。その思い出を感慨深く回想し、ガルニエ神父の墓碑の前で涙ぐむのだった。

白秋とともに泊りし天草の大江の宿は伴天連の宿

宿願の大江教会堂建立へ

大江教会(熊本県天草市天草町大江1782)

齢70を超えたガルニエ神父は、達者なうちにと、永年の宿願であった新しい近代的聖堂建築を発起する。

長崎、五島列島で数多くの名教会を手がけた鉄川与助に設計・施工を依頼。そして当時の最新建築技術である鉄筋コンクリート造とし、1932年から工事は着工された。

建設費の大半を長年の倹約生活で貯めた私財で捻出し、残りを信徒の浄財で補った。それでも費用が不足し、貧しい信徒の負担増に深く苦慮した神父は、母国フランスで暮らす兄アンリーなどから基金を工面した。

そして翌1933年、ロマネスク建築様式の大聖堂「大江教会堂」がついに完成にいたり、大江の丘に祝福に満ちたアンジェラス(天使)の鐘が奏でられた。その時、神父は安堵の表情を浮かべながら次のようにつぶやいた。「私にはもう自分の葬式用のお金は一銭もない」と。

姪ルイズからのプレゼント「聖母の油絵」

大江教会内の祭壇に、二メートル平方の油絵が掲げられている。この絵には、大天使ガブリエルが、聖母マリアにキリストの受胎を告げる瞬間が描かれている。

実はこの油絵は、ガルニエ神父の姪ルイズが、教会の完成を祝ってフランスから送ったもの。この油絵が届いたときには、神父は大はしゃぎし信徒一同に披露した。またルイズや姉から時折送られる手紙やフランス特産品には手放しで喜んでいた。故郷を捨てた神父であったが、寝台の横には郷里ルプュイ市の全景が掲げられ、朝夕に眺めるのが日課となっていた。

天草弁をたくみに使い、現地信徒が家族だと公言していたガルニエ神父。そんな天草人になっても、望郷の念が霧散することはなかったのである。

天草の聖人「フレデリック・ガルニエ」の帰天

ガルニエ搭(天草・大江教会)
ガルニエ塔と大江教会

神父は六畳一間の部屋で、いつも継ぎ接ぎだらけのキャソック(司祭平服)を着て、現地住民以上の粗食に徹した。また当時パリ外国宣教会所属の宣教師に許された2年に1度の帰国も行わずに、その費用も送金させそれらを全て貯蓄した。

そしてその資金は、天草が飢饉に陥った際の村人の救済費用、孤児の養育費、そして、大江教会の建設費などに用いられたが、自身の贅沢のために手をつけることは一切なかった。

何しろ、「わしが贅沢すると人は救えん。フランスから遠い日本に来ているのは人を救うためだ」が口癖だったのだから。

そのガルニエ神父は、教会建設中に敷地の一角に立ち、「ここがわしの墓場だ。死んだらここに埋めてくれ」と足で踏んで埋葬地を指定した。それは「死んでなお、信徒と教会の守護者とならん」という激烈な意思表示であった。

天草・大江の集落
ガルニエ神父が愛し、生涯を終えた大江の集落

在日57年のうち、愛する天草での在住期間が半世紀にも及んだ1940年暮れ。齢80を越えた神父は、風邪をこじらせ病床に伏せてしまう。医者知らずが自慢であったが、人生の総決算と位置付けた教会建立が成り、さしもの神父も気力が衰えたのかもしれない。

一進一退の症状の末、1941年1月19日に永眠。無償の愛に徹した生涯を終えた。享年82歳。当時の日本人の平均寿命が約50歳であったことを考えると大往生といえる。

最後まで滅私に満ちた遺言を残す。そして信徒たちが取った行動とは?

時計の針を神父の臨終目前にまで戻そう。命のともしびが尽きようとするガルニエ神父のもとに、信徒たちが集った。そして手を取り「フランスの親族に何か遺言はありませんか」と訊ねても、力なく頭を横に振るだけだった。

ところが、突如目を見開き「墓石は金をかけてつくるな。山石を持ってきて置けばよか。墓をつくる金で、病人や難儀をしている者に与えてくれ。皆にたいそうお世話になった」と信徒に伝えると、安堵したのか、そのまま二度と開くことのないまぶたを閉じた。

その遺骸は悲しみに暮れる信徒たちよって、生前の言いつけ通りに大江教会敷地の西側に埋葬された。

「ルドヴィコ・ガルニエ塔」建立へ

ガルニエ搭(天草・大江教会)<img src=

神父を慈父のように慕った信徒は、神父の遺言にだけは従えるはずもなかった。天草の聖者の生きた証として、黒御影の荘厳な墓塔を建久し「ガルニエ塔」と命名した。

ガルニエ搭(天草・大江教会)

そのガルニエ塔の頂に建つ十字架には、「汝らゆきて万民に教えよ」という聖書の一文が刻まれている。

「フレデリック・ガルニエ神父」。

この聖書の一文を、愚直なまでに体現した一人のフランス人宣教師。その類稀な生涯に最大限の敬意を表し、筆をおくこととする。

参考文献

• 浜名志松、『天草の土になりて~ガルニエ神父の生涯』、1987年、日本基督教団出版局
• 竹森敏・竹森要『天草からフランスに架ける橋 愛の手紙コレクション』、自費出版、1990年

本稿の執筆、すべての写真撮影:当管理人

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