「隠れキリシタン」と「潜伏キリシタン」の違いを、キリスト教徒が解説!【各種専門書を参考】

ウシワキの森(平戸市根獅子町)
かくれキリシタンの聖地だった「ウシワキの森」(平戸市根獅子町)

チェックポイント 2018年7月に世界遺産登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。

この登録名に違和感を覚える人が多いのは?それは、馴染みのある「隠れキリシタン」ではなく、聞きなれない「潜伏キリシタン」なの?という点

そこでキリスト教徒(カトリック)である筆者が、専門資料を参考にしたガチ解説で、その違和感をスッキリと解消します(ネット情報を切り貼りしただけの低質記事ではありません!)

一般読者向けに平易に解説しています。より詳しく調べたい方には、注釈と参考資料をつけているので、それで補完してください。

なお本稿でいうキリスト教とは、カトリックを指します。

何より「隠れキリシタン」では、矛盾が生じてしまう

  1. いわゆる「隠れキリシタン」とは、信仰形態の違いから、

    1. 江戸時代前期~明治初頭まで
    2. 明治初頭~現在まで
    の2期に分類される。

    そのうち「潜伏キリシタン」とは(1)の江戸時代前期~明治初頭までの「禁教期のキリシタン」を指す。
  2. (1)と(2)のキリシタンを一括して「隠れキリシタン」と表記するのは、多くの矛盾を生じる。
  3. そもそも潜伏キリシタンは、正統なキリスト教徒ではなくなっていた。つまり「江戸期の禁教時代、隠れキリシタンは、仏教徒を装いながらマリア像に模した観音像を隠れて拝み、営々とキリスト教を信仰し続けた。」というのは、イメージの世界に過ぎない。
  4. 実際に潜伏キリシタンが禁教時代に信仰したものは、「キリスト教、仏教、神道、民間信仰が交じり合った民俗宗教」だった。[1]異論もある。かくれキリシタン研究で主流を占める習合論に対し、中園成生氏は、隠れキリシタンは禁教期にあっても、キリシタン時代からのキリスト教信仰、神道、仏教をそれぞれ併存し、使い分けて信仰していた。」とする信仰併存論を唱えている。
    参考:中園 成生、『かくれキリシタンとは何か《オラショを巡る旅》FUKUOKA U ブックレット9 』、弦書房、2015年、22~23頁.
  5. 明治政府がキリシタン禁教令を撤廃する1873年(明治6年)以降、

    1. カトリックに復帰する人びと
    2. 民俗宗教を信仰し続ける「かくれキリシタン」
    とに袂を分った[2]その割合は同数程度だった。
  6. 「民俗宗教を信仰しつづけるかくれキリシタン」は、1873年(明治6年)以降、隠れて信仰しなくなった。そして減少の一途をたどっているが、現在でも実在する。

以上のように、いわゆる「隠れキリシタン」とは、江戸期の禁教時代と、禁教令が撤廃された1873年(明治6年)以降とでは性格が異なる。そもそも明治以降は隠れて信仰していない。

そのため、これらを一括して「隠れキリシタン」と呼ぶには無理がある。

「潜伏キリシタン」を掘り下げて解説

野首集落跡(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産)
かつて潜伏キリシタンが暮らしを営んでいた「野首集落跡」

「潜伏キリシタン」をざっくりまとめると

「潜伏キリシタン」は、戦国後期~江戸時代初期のキリシタン時代をルーツとする。1644年(正保元年)に最後の宣教師[3]小西マンショのこと。例外として、江戸中期の1708年に屋久島へ密入国したシドッチ神父がいる。が殉教して以降、カトリックの教義・典礼を教授する専門職が皆無となる。

潜伏したキリシタンは、村落ごとに地下組織[4]信心会(コンフラリヤ)のこと。庄屋・乙名・五人組頭・長百姓など村落の指導者が、そのままコンフラリヤの組親を兼ねた。キリシタン組織の潜伏と持続を可能とした一因である。
参考:川村 信三、『キリシタン信徒組織の誕生と変容―「コンフラリヤ」から「こんふらりや」へ (キリシタン研究)』、教文館、2003年、287頁.
を結成。帳方・水方・聞役と独自の指導系統を確立し、これが信仰の継承の基盤となる。

しかし司祭からの指導を受けられない200年以上にわたる信仰の継承は、仏教、神道などの在来宗教との混淆をともなった。

民俗宗教化した時期

俵石八幡神社
潜伏キリシタンが参拝していた「俵石八幡神社」

  1. 【キリスト教が伝来した1549年~最後の司祭が殉教した1644年までの】キリシタン時代から。宮崎賢太郎、古野清人による見解。
  2. 【1644年~1873年の明治政府のキリシタン禁教令の撤廃までの】潜伏時代に。片岡弥吉[5]片岡弥吉、『踏絵・かくれキリシタン (片岡弥吉全集) 』、智書房、2014年、166頁.、助野健太郎、村上重好による見解
  3. と研究者によって分れている。[6]中園 成生、『かくれキリシタンの起源《信仰と信者の実相》』、弦書房、2018年、30-41頁.主流なのは(2)の「潜伏時代」に変容したという説。

幕末まで潜伏キリシタンが居住した地域

平戸の春日の棚田(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産)
春日集落(平戸市)

  1. 長崎県長崎市の浦上地区、外海地区、伊王島とその周辺、神ノ島、高島。このうち

    外海の出津集落

    外海の大野集落

    が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産。
  2. 長崎県の五島列島各地(宇久島を除く)[7]五島列島の潜伏キリシタンは、江戸時代後期の1797年から外海地区より移住した人びとの子孫。。このうち

    久賀島の集落

    奈留島の江上集落

    頭ケ島の集落

    野崎島の集落跡

    が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産。
  3. 長崎県の平戸地方。平戸島中部から中南部にかけて(根獅子、春日、高越、下中野、白石など)。[8]平戸島のかくれキリシタンは、1992年、根獅子の組織が解散したのを最後に消滅。および生月島。このうち

    春日集落と安満岳

    中江ノ島

    が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産。
  4. 長崎県佐世保市の黒島

    黒島の集落

    として「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産入り。
  5. 佐賀県の馬渡島[9]江戸時代後期に外海から移住した人びとの子孫。
  6. 熊本県の天草諸島・下島西部(大江、崎津、今富[10]天草で今富村のみは、1936年と遅くまでかくれキリシタン信仰を維持した。
    参考:宮崎 賢太郎『カクレキリシタン オラショ−魂の通奏低音』、長崎新聞社、2008年、40頁.
    、高浜)このうち

    天草の﨑津集落

    が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産。
  7. 福岡県の大刀洗町今村
  8. 鹿児島県の甑島
  9. 大阪府茨木市の千提寺

「潜伏キリシタン」が用語して用いられたのはいつから?

注意点として「潜伏キリシタン」は、隠れキリシタン研究者の間では古くから用いられた用語であり、世界遺産入りのために急造された概念ではない。

まず田北耕成は、1954年刊行の『昭和時代の潜伏キリシタン』ですでに用いている。また片岡弥吉は、1967年刊行の『かくれキリシタン』で禁教期の信徒を、潜伏キリシタンと表記している。

「潜伏キリシタン」が信仰したのはキリスト教か?

前提として「潜伏キリシタンは、キリスト教に加え、仏教、神道、民間信仰が交じり合った民俗宗教を信仰していた」という点では、大方の専門研究者の間で同意を得ている。

次に「この民俗宗教は、キリスト教といえるのか」という論点では、研究者によって見解を異にしている。

• 「片岡弥吉」は、混成宗教化していたことは認めつつも、キリスト教教義の純粋性は保っていたとする。[11]参考:片岡弥吉、『踏絵・かくれキリシタン (片岡弥吉全集) 』、智書房、2014年、141頁.

• 「宮崎賢太郎」は、明確に否定している。民俗宗教を信仰する理由は、キリシタンであった祖先への霊を敬うという祖先崇拝に基づくもので、キリスト教信仰に根差したものではなかったとする。[12]宮崎 賢太郎、『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』、KADOKAWA、2018年、18頁.

• 「中園成生」は、混成化したのではなく、キリシタン時代からのキリスト教信仰、神道、仏教をそれぞれ併存し、使い分けて信仰していた。」とする信仰併存論を唱えている。[13]中園 成生、『かくれキリシタンとは何か《オラショを巡る旅》FUKUOKA U ブックレット9 』、弦書房、2015年、22~23頁.

以上のように、潜伏キリシタンが信仰した民俗宗教はキリスト教か?という問いに、研究者間の意見の一致は見られない。

公式見解では?【「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」】

「潜伏キリシタン」とは、禁教期にも16世紀半ばに伝わったキリスト教の信仰を続けていた人々のことです。

キリスト教禁教期の17~19世紀の日本において、社会的には普通に生活しながらひそかにキリスト教由来の信仰を続けようとしたキリシタンのことを学術的に「潜伏キリシタン」と呼んでいる。そして、彼らの「信仰を実践するために独自の対象を拝むという試み」と、「共同体を維持するために移住先を選ぶという試み」を併せて「潜伏キリシタンの伝統」と呼ぶ。

引用「潜伏キリシタン」とは 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

と、潜伏キリシタンはキリスト教を信仰していたと断言している。そして仏教や神道を併せて信仰していた事実には、「信仰を実践するために独自の対象を拝むという試み」とだいぶオブラートにつつんで表現している。

「潜伏キリシタンがキリスト教を信仰していた」と結論付けるには、早計ではないか

筆者の見解を述べれば、キリスト教を信仰していたと、ここまで断言できるものかと疑念が生じる。

実際問題、幕末に来日したプチジャン司祭は、浦上地区ではカトリック教会の七つの秘跡のうち、潜伏キリシタンが継承していたのは洗礼のみだったと報告している[14]『プチジャン司教書簡集』、純心女子短期大学、1986年、276頁.。その洗礼にしても、水方が行っていた洗礼の有効性を判定し、疑わしい場合は条件付きの再洗礼をおこなっている[15]『プチジャン司教書簡集』、純心女子短期大学、1986年、175頁.

「信仰は形式ではなく心の内にある」という反論もあるだろう。しかしこの点に関しても、当時の資料からみると怪しく思える。江戸時代中期から後期にかけて数度の小規模なキリシタン弾圧事件が起こる。そして当時の取り調べ資料を調べあげた宮崎賢太郎はこう結論している。

キリシタンの教義が伝承されてきたわけでなく、キリシタン信徒自身、キリシタンであるとの明確な意識はなかった。たとえその意識がどこかにあったとしても、キリシタンは何かという意識は欠落していたのである。

引用 :宮崎 賢太郎、『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』、KADOKAWA、2018年、133頁.

以上のように、「潜伏キリシタンが信仰していたものは、キリスト教とはいえない。それはキリスト教、仏教、神道、民間信仰が交じり合った土着化した民俗宗教であった」とするのが歴史的事実に合致している。

1873年(明治6年)以降の隠れキリシタンをどう表記するか?

かくれキリシタンのサン・ジワン枯松神社(長崎県長崎市下黒崎町)
かくれキリシタンの聖地に鎮座する「サン・ジワン枯松神社」

当事者である信徒自身は、生月:「古キリシタン」「旧キリシタン」、平戸:「辻の神さま」、外海:「昔キリシタン」「古キリシタン」「しのび宗」、五島:「元帳」「古帳」と自称していた。

一方研究者では、「潜伏キリシタン」「離れキリシタン」「隠れキリシタン」「納戸神」などを用いていた。[16]参考:宮崎 賢太郎『カクレキリシタン オラショ−魂の通奏低音』、長崎新聞社、2008年、22頁.

現在の研究者は主に、
  1. 「カクレキリシタン」
  2. 「かくれキリシタン」、「かくれきりしたん」
のいずれかで表記する。

1⃣の「カクレキリシタン」表記は、宮崎賢太郎氏が提唱している。カタカナなのは、明治6年以降は隠れて信仰していないから。[17] 宮崎 賢太郎、『カクレキリシタン オラショ−魂の通奏低音』、長崎新聞社、2008年、21頁.

一般的なのは、2⃣のひらがなで「かくれキリシタン」、「かくれきりしたん」での表記。ひらがなを用いるのは、1⃣と同じく明治6年以降は潜伏していないから。カタカナと漢字の「隠れ」との折衷的な表現[18]中園 成生、『かくれキリシタンの起源《信仰と信者の実相》』、弦書房、2018年、50-52頁.

「かくれキリシタン」の現在の数は?

大正から昭和30年代までの推定人口は、2万人から3万人弱だった。[19]宮崎 賢太郎、『カクレキリシタン オラショ−魂の通奏低音』、長崎新聞社、2008年、44頁.

しかし、1980年中期には、400~500軒、1,500人~2,000人と激減。

2018年だと居住地は、長崎県下の外海地方(長崎市)、生月島(平戸市)、旧若松町深堀(新上五島町)に限定されている。[20]中園 成生、『かくれキリシタンの起源《信仰と信者の実相》』、弦書房、2018年、21頁.そしてその数合わせて約80軒[21]宮崎 賢太郎、『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』、KADOKAWA、2018年、202頁.、約400人[22]そのうち生月島に300人が暮らす。「凍結保存」された中世の信仰――かくれキリシタンの島を歩く – Yahoo!ニュース に過ぎず、消滅の危機に瀕している。

まとめ 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」から「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」へ

野崎島の舟森集落(北松浦郡小値賀町野崎島)
舟森集落跡(野崎島)

前後2つの世界文化遺産の名称は、ともに

  1. 「キリシタン時代」 【キリスト教が伝来した1549年~最後の司祭が殉教した1644年まで】
  2. 「潜伏時代」 【1644年~1873年の明治政府のキリシタン禁教令の撤廃まで】
  3. 「キリスト教の復活」 【1873年の明治政府のキリシタン禁教令の撤廃~現在まで】
の3期を対象としています。

ただしその中でも重点を置いているのは、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が3⃣における復活期での教会堂建立であったのに対し、

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」では、ユネスコの諮問機関イコモスの指摘により、2⃣の禁教期でのキリシタン信仰とにシフトしました。

そうなると「隠れキリシタン」表記では齟齬をきたす訳です。なぜなら「潜伏キリシタン」とは連続性があるが、差異も大きい「かくれキリシタン」が実在するのですから。

つまり広く普及した「隠れキリシタン」ではなく、専門用語である「潜伏キリシタン」を用いたのは、より実情に即した名称とするためです。

そして3⃣の「キリスト教の復活期」でも、従来の教会堂重視から、復帰したカトリックとかくれキリシタンが生活を営んだ集落にまで適用範囲をひろげているのが特色です。その点に着目して「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を巡れば、より広い視座で関連資産を見学できるでしょう。

参考文献/サイト

• 宮崎 賢太郎、『カクレキリシタン オラショ−魂の通奏低音』、長崎新聞社、2008年

• 宮崎 賢太郎、『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』、KADOKAWA、2018年

• 中園 成生、『かくれキリシタンの起源《信仰と信者の実相》』、弦書房、2018年

• 中園 成生、『かくれキリシタンとは何か《オラショを巡る旅》FUKUOKA U ブックレット9 』、弦書房、2015年

• 片岡 弥吉、『踏絵・かくれキリシタン (片岡弥吉全集) 』、智書房、2014年

• 川村 信三、『キリシタン信徒組織の誕生と変容―「コンフラリヤ」から「こんふらりや」へ (キリシタン研究)』、教文館、2003年

• 『プチジャン司教書簡集』、純心女子短期大学、1986年

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最後に

各研究者に対しては、慣例に沿って敬称を略しました。浅学非才な筆者の非礼をこの場を借りお詫びします。

本稿の執筆、すべての写真撮影:当管理人

画像・文章の無断転載を固くお断りします(観賞価値・作品性を有する写真の引用は、著作権法によりできません。行えば損害賠償の対象となります)。詳しくは「転載、引用について」をお読みください。

脚注・出典   [ + ]

1. 異論もある。かくれキリシタン研究で主流を占める習合論に対し、中園成生氏は、隠れキリシタンは禁教期にあっても、キリシタン時代からのキリスト教信仰、神道、仏教をそれぞれ併存し、使い分けて信仰していた。」とする信仰併存論を唱えている。
参考:中園 成生、『かくれキリシタンとは何か《オラショを巡る旅》FUKUOKA U ブックレット9 』、弦書房、2015年、22~23頁.
2. その割合は同数程度だった。
3. 小西マンショのこと。例外として、江戸中期の1708年に屋久島へ密入国したシドッチ神父がいる。
4. 信心会(コンフラリヤ)のこと。庄屋・乙名・五人組頭・長百姓など村落の指導者が、そのままコンフラリヤの組親を兼ねた。キリシタン組織の潜伏と持続を可能とした一因である。
参考:川村 信三、『キリシタン信徒組織の誕生と変容―「コンフラリヤ」から「こんふらりや」へ (キリシタン研究)』、教文館、2003年、287頁.
5. 片岡弥吉、『踏絵・かくれキリシタン (片岡弥吉全集) 』、智書房、2014年、166頁.
6. 中園 成生、『かくれキリシタンの起源《信仰と信者の実相》』、弦書房、2018年、30-41頁.
7. 五島列島の潜伏キリシタンは、江戸時代後期の1797年から外海地区より移住した人びとの子孫。
8. 平戸島のかくれキリシタンは、1992年、根獅子の組織が解散したのを最後に消滅。
9. 江戸時代後期に外海から移住した人びとの子孫。
10. 天草で今富村のみは、1936年と遅くまでかくれキリシタン信仰を維持した。
参考:宮崎 賢太郎『カクレキリシタン オラショ−魂の通奏低音』、長崎新聞社、2008年、40頁.
11. 参考:片岡弥吉、『踏絵・かくれキリシタン (片岡弥吉全集) 』、智書房、2014年、141頁.
12. 宮崎 賢太郎、『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』、KADOKAWA、2018年、18頁.
13. 中園 成生、『かくれキリシタンとは何か《オラショを巡る旅》FUKUOKA U ブックレット9 』、弦書房、2015年、22~23頁.
14. 『プチジャン司教書簡集』、純心女子短期大学、1986年、276頁.
15. 『プチジャン司教書簡集』、純心女子短期大学、1986年、175頁.
16. 参考:宮崎 賢太郎『カクレキリシタン オラショ−魂の通奏低音』、長崎新聞社、2008年、22頁.
17. 宮崎 賢太郎、『カクレキリシタン オラショ−魂の通奏低音』、長崎新聞社、2008年、21頁.
18. 中園 成生、『かくれキリシタンの起源《信仰と信者の実相》』、弦書房、2018年、50-52頁.
19. 宮崎 賢太郎、『カクレキリシタン オラショ−魂の通奏低音』、長崎新聞社、2008年、44頁.
20. 中園 成生、『かくれキリシタンの起源《信仰と信者の実相》』、弦書房、2018年、21頁.
21. 宮崎 賢太郎、『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』、KADOKAWA、2018年、202頁.
22. そのうち生月島に300人が暮らす。「凍結保存」された中世の信仰――かくれキリシタンの島を歩く – Yahoo!ニュース

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