その分霊を祀っていたのは、他ならぬ「隠れキリシタン」だった。
事実は小説より奇なり このことわざを地でいく長崎市南西部の城山(俵石山)に鎮座する「俵石 八幡神社」を解説します。
ご由緒
序章
武家の棟梁たる源頼朝ゆかりの「鶴岡八幡宮」。
武神の大社である八幡さまと「隠れ(潜伏)キリシタン」とがどう結びつくのか? これよりそのもつれた歴史の糸を解きほぐしたい。
俵石八幡神社の創建
平姓三浦氏の一族、深堀氏は、上総国(現千葉県中部)の深堀をおさめていた。
鎌倉時代前期の建長7年(1255)。深堀能仲の時代に、承久の乱での戦功の褒美として、肥前国彼杵荘戸八浦(現在の長崎市南部、野母半島一帯)を鎌倉幕府よりあたえられる。
能仲は鶴岡八幡宮で祀る神さまを、戸八浦にそびえる城山(俵石山)の山頂に分霊してまつった[1]中尾 正美 (著)、『郷土史「深堀」』、深堀地区公民館、1965年、211ページ 。これが「俵石八幡神社」の起こりである。
深堀漁港から見る城山 | 城山に残る俵石城跡の石塁 |
この城山には、深堀氏が拠点とした俵石城(深堀城)がきずかれていた。
俵石八幡神社は、この城を霊的に守護する役割をになっていたのである 。1720年(享保5)には、領主深堀茂久の命によって、元来の小さな祠から立派な建築物を構えるやしろへと再建された。[2]平 幸治 (著)、『肥前国 深堀の歴史 新装版』、長崎新聞社、2013年、359ページ
隠れキリシタンの善長谷への移住
現在の三重地区樫山町 | 教会敷地傍にある長谷川甚介・佐八の顕彰碑 |
俵石八幡神社の創建から約570年の月日が移り過ぎた、江戸時代後期の1823年(文政6)。
城山中腹の善長谷にとある旅芸人の一団が居をかまえる。その旅芸人の正体。それは三重地区樫山から移住してきた長谷川甚介とその子佐八、その他6家族なる隠れ(潜伏)キリシタンだったのだ。
深堀武家屋敷跡 | 菩提寺 |
深堀のお殿さまだが、戦国末期より佐賀の鍋島家から養子をむかえ、深堀鍋島家となっていた。[3]戦国時代末期、深堀純賢が佐賀鍋島氏に臣従し、鍋島の姓をたまわる。そして鍋島茂賢を養子にむかえ、この茂賢が深堀鍋島家6000石の初代当主として君臨する。それ以降、佐賀鍋島家の家老職として明治維新の廃藩まで存続した。 余談になるが、深堀をふくめ現長崎市内に散在していた佐賀鍋島藩領内では、1871年(明治4)の伊万里事件まで、比較的キリシタンに寛大であった。そのため神ノ島、伊王島、外海、そして深堀などの領内におおくの隠れキリシタンが暮らしを営んでいた
• 俵石八幡神社への祭礼参加
• 菩提寺の檀家となること
• 深堀鍋島家当主への水汲み役を果たすこと
を条件として、かれらの信仰を黙認することした。
こうして武神として崇敬あつい八幡さまを、隠れキリシタンが祀るという史上たぐいまれな成りゆきとなった。
カトリックに復帰した人たちによって建立された「善長谷教会」
やがて明治維新をむかえる。1899年(明治22)の大日本帝国憲法公布によって信仰の自由が保障され、キリシタン禁制の縛が約280年ぶりに解かれた。
それを踏まえて善長谷の住人のあいだで、かんかんがくがくの協議がなされる。その結果、そのまま隠れキリシタンの信仰を続ける者たち[4]「隠れキリシタン」の呼称については、専門的には、江戸時代から大日本帝国憲法公布までを「潜伏キリシタン」、同憲法公布以降は「カクレキリシタン」と分けて表記される。当記事では便宜上「隠れキリシタン」で統一している と、カトリックに復帰する者たちとに袂をわかつ事態となった。
そのため前者は旧三和町岳路に移住するはこびとなる。八幡神社の祭礼は、その後も岳路の隠れキリシタンによって続けられた。しかし、昭和10年代には隠れキリシタンとしての活動は、事実上終焉をむかえることとなる[5]・宮崎 賢太郎 (著)、『カクレキリシタン オラショ−魂の通奏低音』、2001年、長崎新聞新書、254ページ
・三和町、『三和町郷土誌』、三和町、1986年、717ページ 。
八幡神社の祭礼についてだが、現在にいたるまで、岳路と善長谷の住人によって祀りつがれている。
拝殿200メートル手前にたつ第一鳥居。
岳路の隠れキリシタンは毎月15日に、境内に敷くための濃緑のきれいな砂浜を桶にいれてかつぎ、ここで新しい草履に履きかえてから参拝する礼をとっていた[6]・三和町、『三和町郷土誌』、三和町、1986年、720ページ
・中尾 正美 (著)、『郷土史「深堀」』、深堀地区公民館、1965年、208~209ページ 。この行事は1932年ごろまでは行われていたという。
エピローグ
日本のキリスト教史と縁の深い長崎県下では、キリスト教にまつわる多くの神社が実在する[7]代表例としてキリシタンを祀る以下の「キリシタン神社」があげられる
・「サン・ジワン枯松神社」 (長崎市下黒崎町)
・「桑姫神社」 (長崎市渕町)
・「山神神社」 (新上五島町桐古里郷)
・「頭子神社」 (上五島町有福郷)
キリシタン神社としての山神神社と頭子神社は、宮崎賢太郎氏の研究成果によって日の目をみることなった(宮崎賢太郎、『カクレキリシタン』、長崎新聞新書、2001年、207~220ページ)。
他にも平戸市の根獅子、生月をはじめとして、カクレキリシタンの信仰対象となった神道色が濃い祠が多く建立されている。折をみて紹介していきたい 。俵石八幡神社はその一例である。
かつて、他宗教の活動を自宗教のものとして受容れる、寛容で多様性にとんだ精神が長崎に実在した。隠れキリシタンによって祀りつづけられた俵石八幡神社の歴史こそ、そのことを照らしだした好例といえよう。
参拝ガイド
- 神社は神さまがおられる神域です。参拝のさいには、作法とマナーをお守りください。
- 俵石八幡神社は、山道がよく整備されていない標高350mの山頂に鎮座しています。
「俵石八幡神社」をおとずれるには、事前に位置を把握しておき、登山靴などの装備が必要です。また雨天後の土が濡れた状態では、滑り落ちる危険がありますので、絶対に入山しないでください。
善長谷教会から山道にはいり、「俵石・亀石」⇒「俵石城跡の石塁」⇒「俵石八幡神社」とめぐるとよいでしょう。詳細は以下を参考のこと
境内にある建造物
ご由緒が刻まれた石碑と鳥居菩提寺十一世鶴天大き大和尚の撰銘にして、冒頭には「肥の前の州彼杵郡深堀邑俵石山八幡宮は原相州鶴ヶ岡八幡宮の若宮也而して此の地に遷祟したる所の鎮守也」と刻まれている。[8] 中尾 正美 (著)、『郷土史「深堀」』、深堀地区公民館、1965年、211ページ
神籠石 (直径約2メートルの楕円形の石) 。
石器時代に神を祭るための祭具だったと中尾正美氏は推測している。
• [左]「陸軍省 長崎要塞第二地帯標 第八号」の碑
• [右]「城山の山頂三角点」(標高350メートル)
基本情報
住所 | 長崎市深堀町4丁目 城山山頂 |
交通案内 | 善長谷教会駐車場:JR長崎駅より車で約40分。 そこから城山へ入山し、徒歩約30分で到着 |
拝観・開館時間 | 常時可能(山中にあるため日没時間前に山より下りること) |
名称 | 八幡神社 |
創建年 | 建長7年(1255) |
主祭神 | ・応神天皇(オウジンテンノウ) ・比売神(ヒメガミ) ・神功皇后(ジングウコウゴウ) |
例大祭 | 不明 |
旧社格 | 無格社 |
ただし、
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脚注・出典
↑ 1. | 中尾 正美 (著)、『郷土史「深堀」』、深堀地区公民館、1965年、211ページ |
↑ 2. | 平 幸治 (著)、『肥前国 深堀の歴史 新装版』、長崎新聞社、2013年、359ページ |
↑ 3. | 戦国時代末期、深堀純賢が佐賀鍋島氏に臣従し、鍋島の姓をたまわる。そして鍋島茂賢を養子にむかえ、この茂賢が深堀鍋島家6000石の初代当主として君臨する。それ以降、佐賀鍋島家の家老職として明治維新の廃藩まで存続した。 余談になるが、深堀をふくめ現長崎市内に散在していた佐賀鍋島藩領内では、1871年(明治4)の伊万里事件まで、比較的キリシタンに寛大であった。そのため神ノ島、伊王島、外海、そして深堀などの領内におおくの隠れキリシタンが暮らしを営んでいた |
↑ 4. | 「隠れキリシタン」の呼称については、専門的には、江戸時代から大日本帝国憲法公布までを「潜伏キリシタン」、同憲法公布以降は「カクレキリシタン」と分けて表記される。当記事では便宜上「隠れキリシタン」で統一している |
↑ 5. | ・宮崎 賢太郎 (著)、『カクレキリシタン オラショ−魂の通奏低音』、2001年、長崎新聞新書、254ページ ・三和町、『三和町郷土誌』、三和町、1986年、717ページ |
↑ 6. | ・三和町、『三和町郷土誌』、三和町、1986年、720ページ ・中尾 正美 (著)、『郷土史「深堀」』、深堀地区公民館、1965年、208~209ページ |
↑ 7. | 代表例としてキリシタンを祀る以下の「キリシタン神社」があげられる ・「サン・ジワン枯松神社」 (長崎市下黒崎町) ・「桑姫神社」 (長崎市渕町) ・「山神神社」 (新上五島町桐古里郷) ・「頭子神社」 (上五島町有福郷) キリシタン神社としての山神神社と頭子神社は、宮崎賢太郎氏の研究成果によって日の目をみることなった(宮崎賢太郎、『カクレキリシタン』、長崎新聞新書、2001年、207~220ページ)。 他にも平戸市の根獅子、生月をはじめとして、カクレキリシタンの信仰対象となった神道色が濃い祠が多く建立されている。折をみて紹介していきたい |
↑ 8. | 中尾 正美 (著)、『郷土史「深堀」』、深堀地区公民館、1965年、211ページ |
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