中町教会【見どころ・礼拝ガイド】~信徒が解説

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「中町教会の歴史」 序章

長崎の教会群、中町教会 長崎県下のきら星のごとき教会群のなかでは、中町教会はやや地味な存在である。

本教会ほど近い聖フィリッポ西坂教会とくらべると、林立するビルのため目立たず、訪れる観光客も多くはない。しかし、巨大尖塔をシンボルとするこの白亜の教会は、教会の町・長崎にあってもひときわ異彩を放っている。

この古教会が奏でる、創建から現在までのドラマチックな物語をお届けしたい。    

苦難にみちた教会創建

出津教会(長崎市西出津町)、世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」 クリスマスイルミネーションを施した長崎・神ノ島教会
1882年竣工の「出津教会」 1897年竣工の「神ノ島教会」

1897年(明治30)年創建の中町教会。「旧」長崎市内での現存教会としては、大浦天主堂に次ぐ120年の歴史をきざむ古教会だ。その大浦天主堂だが、当初は長崎居留地の外国人信徒向けとしてたてられた。

 また、現在の長崎市内にたつ現存教会から見渡しても、中町教会は五指か六指にはいる古さだ[1]中町教会より古いか同時期に創建された長崎市中の現存教会
・大浦天主堂  1864年(元治元)竣工   南山手町
・旧大明寺教会 1879年(明治12) 〃    伊王島町(愛知県明治村に移築)
・出津教会   1882年(明治15) 〃    西出津町
・大野教会   1893年(明治26) 〃    下大野町
・中町教会   1896年(明治29) 〃    中町
・神ノ島教会  1897年(明治30) 〃    神ノ島町
※大浦天主堂、中町教会以外の古教会がたつ地域が長崎市に編入されるのは後のこと

創建に立ちはだかる難関とは?

それは幕末から明治初頭における旧長崎市内では、
  1. カトリック教会創建の原動力となる隠れキリシタンが皆無だった[2][1]の古教会群のうち、大浦天主堂・中町教会以外の教会がたつ外海、神ノ島、伊王島には、
    1.江戸時代より隠れキリシタン(潜伏キリシタン)が多数居住しており
    2.そして明治以降に隠れキリシタンからカトリックに復帰した者たちが、主任神父と力をあわせ教会堂建設へ邁進した
    という歴史がある

  2. 幕末から明治初頭にかけて長崎県下には、浦上四番崩れをはじめとする弾圧の嵐が吹き荒れた。中町教会が建築をはじめる1891年(明治24)時点においてさえも、市中には反キリスト教の気風が色濃く残存していた
という悪条件下にありながら、反感を招きやすい日本人信徒用の教会堂を建てることにあった。 

教会堂建築から完成まで

雪の日本二十六聖人殉教地(西坂公園)の「日本二十六聖人殉教記念碑 昇天のいのり」

ただ、1873年(明治6)のキリシタン禁制の立札の撤廃以降、明治政府はキリスト教信仰を黙認から公認する方針へ徐々にむかう。それによって、長崎市中においてもイエス・キリストへ祈りを捧げる日本人が次第にふえてきた。

しかし外国人信徒向けに建てられた大浦天主堂では、何かと不便が絶えなかった。「日本二十六聖人殉教[3]1597年(慶長元年)2月5日、豊臣秀吉の命によって、日本人20名、外国人6名、計26名のキリシタンが長崎・西坂の丘で十字架にかけられ処刑されるという事件がおこる。この日本二十六聖人殉教事件は、日本の国家統治者による最初のキリシタン処刑事件として、西洋に強い衝撃をあたえた。
殉教事件から30年後の1627年(寛永4年)には、教皇ウルバノ八世によって殉教した26名に「福者」の称号が早くもあたえられる。
幕末の1862年(文久2年)、教皇ピオ九世によってカトリック信者としては最高位の称号である「聖人」に列せられた。
の地に、日本人のための聖堂を創建しよう!」 島内要助神父は意を決する。

丸川公園 長崎開港先覚者之碑に描かれた大村純忠中町教会そばにある大村藩蔵屋敷跡の碑中町教会そばにある大村藩蔵屋敷の遺構となる石垣

情熱に燃える島内神父のもとに、匿名のフランス人から千円の大金が献金として郵送された[4]長崎市(編)、『長崎市史 〔複刻版〕(地誌編 神社教会部)」下』、清文堂出版 、1981年、650ページ 。これを元手に西中町にある、大村純忠[5]大村純忠(1533-1587)
戦国時代中期から安土桃山時代にかけての戦国大名。
1563年(永禄6)にコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、日本最初のキリシタン大名となり歴史に名をのこす。長崎をイエズス会に寄付するなど、日本キリスト教史に不滅の足跡をきざんだ
ゆかりの大村藩蔵屋敷跡を教会用地として確保した(写真左:長崎開港先覚者之碑に描かれた大村純忠/中央:大村藩蔵屋敷跡の碑/右:教会敷地側面に残る屋敷跡の石垣)

しかしこの時点ですでに建築資金が底をついており、島内神父は途方にくれる。この窮状を聞いた来日中のフランス人司祭「フランシスク・マルナス」[6]フランシスク・マルナス(1859-1932)
3度の来日経験を有し、わが国での布教活動とキリスト教史研究に多くの偉大な足跡を残したパリ外国宣教師会のフランス人神父。 氏の著作である『日本キリスト教復活史』 は、ルイス・フロイスの『日本史』、レオン・パジェスの『日本キリシタン宗門史』と並ぶ日本キリスト教史のバイブルである。
が資金援助のため奔走した。それに応え、遠い異国に住む見ず知らずの信徒を救おうと、フランス・リヨンのとある夫人から匿名を条件に8万フランもの献金がおくられた。

こうした国内外からのあたたかい善意の末の1896年(明治29)。巨大な尖塔をシンボルとしたロマネスク様式の「西中町教会堂」(※当時の名称)が完成にいたった。その壮麗な教会を目の当たりにした島内神父と長崎市中の信徒170名の歓喜のほどは、容易に想像できよう。

翌1897年(明治30)9月8日。日本二十六聖人の殉教300年祭を兼ねた献堂式が盛大に執りおこなわれた。そこには東京大司教区オズーフ大司教をはじめとして、長崎司教区クーザン司教他、函館、大阪の各司教、司祭者など約670名が参列。その他、長崎市長をはじめ、県庁、市役所、裁判所、警察署など長崎県官庁の上級官吏[7]30年前までは浦上四番崩れなどの大弾圧を先導した者たちの出席にクーザン長崎教区司教は驚きを隠せない。そして時の移り変わりを思い感慨を深くしている。
坂井信生、『明治長崎のキリスト教』、長崎新聞社、2005年、80ページ
、信徒一般参列者約4000名が一堂に会する壮観な式典となった[8]長崎市(編)、『長崎市史 〔複刻版〕(地誌編 神社教会部)」下』、清文堂出版 、1981年、652~653ページ

聖堂はキリストの母、聖マリアにささげられ、「致命の聖マリア堂」の名をたまわった[9]カトリックでは、特定の聖人に教会堂の保護者として取次ぎを願うのが習わし。 通常では献堂式とよばれる(教会堂の)落成式の場で決められる。 したがって、「中町教会」といった地域名での教会名はあくまで通称で、その教会の保護者名が正式名称である。 。  

原爆による惨禍、そして残骸からの復活劇

運命の1945年8月9日11時2分

時代は太平洋戦争へとかじをきる。

そして迎えた1945年8月9日11時2分。松山町上空で炸裂した原子爆弾による猛烈な爆風が、2.5キロ離れた中町教会へ容赦なく襲いかかった。その爆風によって天井が崩落し、柱もかたむいた状態となる。満身創痍となった教会に港側からあがった火の手がつつみ、たちまち火だるまとなった[10]長崎の原爆遺構を記録する会 (編)、『原爆遺構 長崎の記憶』、海鳥社、1993年、94ページ

島内神父が精魂をかたむけ、国内外からの大勢の善意によってようやく完成にいたった中町教会。その名教会は、こうして尖塔と側壁だけを無残にさらす姿へとかわりはてた。

がれきの山からの再建

それから6日後、日本政府はポツダム宣言の受諾を国民に発表する。これによって時代は戦後をむかえる。

教会再建のために援助の手をさしのべたのは、カナダのスカボロ外国宣教会の創始者、「ジョン・メリー・フレーザー神父」である。フレーザー神父の呼びかけに応じて、数年前まで交戦国だったカナダの人びとをはじめとして、世界中からの善意の献金が惜しみなくおくられた[11]長崎県教育委員会 (編)、『長崎県のカトリック教会』、長崎県教育委員会、1977年、9ページ
中町教会信徒は、満足な食事さえままならない戦後の困窮のなかにあった。しかし再建資金をえたことで教会復元へと力強く歩をすすめる。

1950年(昭和25)1月。いよいよ再建工事がはじまった。 礎石、レンガの旧外壁はそのまま利用し、内側から鉄骨柱をそえて補強した。残った中央尖塔の両脇には2本の小塔をそえた。 信徒たちは、男女問わずにほとんど手作業で再建工事に従事した[12]長崎文献社(編)、『旅する長崎学 キリシタン文化Ⅴ』、長崎文献社、2006年、36ページ 。朝も、晩も、灼熱の夏も、極寒の冬も、約2年間にわたってずっと、ずっと。

中町教会とモニュメント そして1951年(昭和26)10月。戦前の赤レンガの装いから純白に染まった白亜の教会として、瓦礫の山からの劇的な復活をとげた[13]その6年後の1957年には、古川重吉神父と中町教会信徒約3700名は、善長谷の信徒250名と力をあわせ、善長谷ルルド建設の難事業に立ち向かう。
当時秘境であった善長谷でのルルド建設は困難を極めた。しかしフランスのルルドで聖マリアが降臨した100周年目にあたる1958年の9月に1年半の月日を要して完成にいたった。中町教会信徒の不屈の闘志には、敬意を表する他はない。詳しくは 「善長谷教会」 善長谷のルルドの項を参照のこと
なお、当時の善長谷の秘境ぶりについては、なかにし礼原作、深町幸男監督の映画『長崎ぶらぶら節』(2000年公開)で映像化されている。興味のある方はごらんいただきたい。

ほほえみの十字架がむかえる教会として

中町教会の新たな守護者、「聖トマス西と15名の殉教者(長崎十六聖人)」

中町教会敷地内にある聖トマス西と15名の殉教者(長崎十六聖人) 1987年(昭和62)、西坂の丘で殉教した「聖トマス西と15名の殉教者(長崎十六聖人)」が、わが国では二十六聖人以来、125年ぶりとなる聖人の座に列せられた。

翌88年に来崎したフィリピンのハイメ・シン枢機卿によって、「長崎十六聖殉教者の碑」の除幕式が教会中庭で盛大におこなわれる。 そこでシン枢機卿は西町教会を聖トマト西と十五聖殉教者にささげ、「日本十六聖人教会」と改めて命名した[14]献堂式と教会堂の正式名称については、脚注・出典の[9]を参照のこと

ザビエルゆかりの「ほほえみの十字架」

スペイン・バスク地方のザビエル城には、13世紀制作のフランシスコ・ザビエルゆかりの「ほほえみの十字架」がある。

2003年(平成15)に同地を巡礼した下川英利神父は、日本にキリスト教布教の種をまいたザビエルゆかりの十字架を切望し、スペインの工房にレプリカを発注する。翌2004年、世界でたった一つの「ほほえみの十字架」のレプリカが到着した。

髙見三明大司教による十字架への祝福と記念ミサが挙行された後に、祭壇中央に厳かに配され、中町教会の新たなシンボルとなった。

エピローグ

西坂の丘近くにそびえる中町教会。この白亜の教会が奏でてきた120年の歴史は、いどもの苦難と歩を一にしてきた。

しかし裏を返せば、そのたびに敬虔な信徒による奉仕と世界中から贈られた善意によって苦難に打ち勝ってきた歴史でもある。「至福の丘」西坂で殉教した人びとによってまかれた麦の種が潜伏キリシタンとなり、明治以降の信教の自由をへて豊かに実った長崎のカトリック史。その不屈の歴史をそのまま体現した永久不朽の古教会堂である。        

光のカーテンをおびた中町教会

ライトアップされた中町教会 中町教会のイルミネーション

ライトアップされた中町教会

毎夜ライトアップされる中町教会のすがたは、名画のような美しさ。原爆にも耐えたシンボルの尖塔がパープルに彩られるのがとても印象的です。
(※車でお越しの方は、教会敷地隣のコインパーキング「柴田ガレージ24中町」にお停めください。また大声をだす、ミサを覗くなどの行為は控えてください)

ライトアップされた日本二十六聖人殉教地(西坂公園)・聖フィリッポ教会

中町教会から徒歩10分の「日本二十六聖人殉教地(西坂公園)・聖フィリッポ教会」もライトアップされますので、JR長崎駅周辺にお泊りの方は両所を徒歩で巡るのをオススメします(※西坂公園の駐車場は17:00時に施錠されます)

                     [了] 

本稿の執筆、すべての写真撮影:当管理人(※画像・文章の無断転載を固くお断りします。転載については必ずこちらをお読み下さい。

専門情報

 正式名称 日本十六聖人教会
 旧聖堂の竣工 1896年(明治29)
 旧聖堂の設計 パピノー神父
 旧聖堂の施工 不詳
(※ネットで川原正治の名があがっているが良質な資料では確認できなかった)
 新聖堂の竣工 1951年(昭和26)
 小教区 中町小教区
 教会の保護者 聖トマス西と十五聖殉教者
 主日ミサ 土曜日 17:00/日曜日 午前6:30、9:00
 外部主構造 鉄筋コンクリート[15]以下、長崎県教育委員会 (編)、『長崎県のカトリック教会』、長崎県教育委員会、1977年、9ページ
 天井形式 筒形ヴォールト天井

敷地内の主施設・史跡・モニュメント

◇主施設
•「お告げのマリア修道院」
•「お告げの聖母保育園」
•「マルチレス中町 (信心用具販売店)」

◇史跡・モニュメント
•「聖トマス西と15殉教者の記念庭園」 (教会駐車場のある敷地)
•「日本二十六聖人3少年像」 (司教館前)
•「大村藩屋敷跡の碑」
•「大村藩屋敷跡の石垣」
•「被爆遺構の銘板」

本教会周辺の教会、キリスト教関連史跡

•「日本二十六聖人殉教地(西坂公園)」
•「聖フィリッポ西坂教会」 長崎市西坂町7-8

•「聖林山 本願寺」           長崎市筑後町2-10  地図上の位置
※聖ラザロ病院・聖ジョアンバウチスタ教会跡。当時の南蛮井戸が残る(井戸の見学には、本願寺の許可が必要)

•「瑞雲山 西勝寺」    長崎市上町5-4    地図上の位置
※西勝寺文書「きりしたんころび証文」保管(非公開)

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■「ながさきプレス」2022年12月号のインフルエンサー特集で紹介される。

■各種公的機関などに画像を提供。

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脚注・出典

↑ 1. 中町教会より古いか同時期に創建された長崎市中の現存教会
・大浦天主堂  1864年(元治元)竣工   南山手町
・旧大明寺教会 1879年(明治12) 〃    伊王島町(愛知県明治村に移築)
・出津教会   1882年(明治15) 〃    西出津町
・大野教会   1893年(明治26) 〃    下大野町
・中町教会   1896年(明治29) 〃    中町
・神ノ島教会  1897年(明治30) 〃    神ノ島町
※大浦天主堂、中町教会以外の古教会がたつ地域が長崎市に編入されるのは後のこと
↑ 2. [1]の古教会群のうち、大浦天主堂・中町教会以外の教会がたつ外海、神ノ島、伊王島には、
1.江戸時代より隠れキリシタン(潜伏キリシタン)が多数居住しており
2.そして明治以降に隠れキリシタンからカトリックに復帰した者たちが、主任神父と力をあわせ教会堂建設へ邁進した
という歴史がある
↑ 3. 1597年(慶長元年)2月5日、豊臣秀吉の命によって、日本人20名、外国人6名、計26名のキリシタンが長崎・西坂の丘で十字架にかけられ処刑されるという事件がおこる。この日本二十六聖人殉教事件は、日本の国家統治者による最初のキリシタン処刑事件として、西洋に強い衝撃をあたえた。
殉教事件から30年後の1627年(寛永4年)には、教皇ウルバノ八世によって殉教した26名に「福者」の称号が早くもあたえられる。
幕末の1862年(文久2年)、教皇ピオ九世によってカトリック信者としては最高位の称号である「聖人」に列せられた。
↑ 4. 長崎市(編)、『長崎市史 〔複刻版〕(地誌編 神社教会部)」下』、清文堂出版 、1981年、650ページ
↑ 5. 大村純忠(1533-1587)
戦国時代中期から安土桃山時代にかけての戦国大名。
1563年(永禄6)にコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、日本最初のキリシタン大名となり歴史に名をのこす。長崎をイエズス会に寄付するなど、日本キリスト教史に不滅の足跡をきざんだ
↑ 6. フランシスク・マルナス(1859-1932)
3度の来日経験を有し、わが国での布教活動とキリスト教史研究に多くの偉大な足跡を残したパリ外国宣教師会のフランス人神父。 氏の著作である『日本キリスト教復活史』 は、ルイス・フロイスの『日本史』、レオン・パジェスの『日本キリシタン宗門史』と並ぶ日本キリスト教史のバイブルである。
↑ 7. 30年前までは浦上四番崩れなどの大弾圧を先導した者たちの出席にクーザン長崎教区司教は驚きを隠せない。そして時の移り変わりを思い感慨を深くしている。
坂井信生、『明治長崎のキリスト教』、長崎新聞社、2005年、80ページ
↑ 8. 長崎市(編)、『長崎市史 〔複刻版〕(地誌編 神社教会部)」下』、清文堂出版 、1981年、652~653ページ
↑ 9. カトリックでは、特定の聖人に教会堂の保護者として取次ぎを願うのが習わし。 通常では献堂式とよばれる(教会堂の)落成式の場で決められる。 したがって、「中町教会」といった地域名での教会名はあくまで通称で、その教会の保護者名が正式名称である。
↑ 10. 長崎の原爆遺構を記録する会 (編)、『原爆遺構 長崎の記憶』、海鳥社、1993年、94ページ
↑ 11. 長崎県教育委員会 (編)、『長崎県のカトリック教会』、長崎県教育委員会、1977年、9ページ
↑ 12. 長崎文献社(編)、『旅する長崎学 キリシタン文化Ⅴ』、長崎文献社、2006年、36ページ
↑ 13. その6年後の1957年には、古川重吉神父と中町教会信徒約3700名は、善長谷の信徒250名と力をあわせ、善長谷ルルド建設の難事業に立ち向かう。
当時秘境であった善長谷でのルルド建設は困難を極めた。しかしフランスのルルドで聖マリアが降臨した100周年目にあたる1958年の9月に1年半の月日を要して完成にいたった。中町教会信徒の不屈の闘志には、敬意を表する他はない。詳しくは 「善長谷教会」 善長谷のルルドの項を参照のこと
なお、当時の善長谷の秘境ぶりについては、なかにし礼原作、深町幸男監督の映画『長崎ぶらぶら節』(2000年公開)で映像化されている。興味のある方はごらんいただきたい。
↑ 14. 献堂式と教会堂の正式名称については、脚注・出典の[9]を参照のこと
↑ 15. 以下、長崎県教育委員会 (編)、『長崎県のカトリック教会』、長崎県教育委員会、1977年、9ページ
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